1/9 3学期始業の会

1月9日(火)朝、体育館にて3学期始業の会を実施しました。以下、校長あいさつの概要を記します。

 冬休みが明け、生徒の皆さんとの再会を嬉しく思いますが、年始は災害や事件・事故が相次ぐ幕開けとなりました。とりわけ、石川県能登半島付近を震源とする地震では、お亡くなりになられた方や安否不明の方をはじめ、たくさんの方々が被害を受けられ、心が痛みます。同時に、この地震がもし大阪で起こっていたらどうなっていたか、災害が我々の身にも降りかかってくる可能性があることを、改めて考えさせられる機会にもなりました。

 生徒の皆さんにとって地元での大きな地震の経験は、5年前の大阪北部地震が記憶に新しいところでしょう。皆さんが生まれる十数年には阪神淡路大震災がありました。私自身にとっても強烈な記憶として残っていますので、そのときのことを少し振り返ってみます。

 私が教師になって2年めの1995年1月17日午前5時46分、大阪市内の実家にて強烈な縦揺れで目が覚めました。その頃神戸ではたいへんな状況になっていましたが、大阪の自宅では棚のCDが数枚倒れた程度。テレビをつけると神戸で火災が発生しているようだとの情報も入りましたが詳細は不明、とにかく早く学校に行かなくてはとの思いで最寄りのバス停から大阪駅に向かいました。しかし学校のある高槻方面への鉄道はすべてストップ。駅のテレビには高速道路が横倒しになっている信じられない光景が映し出され、呆然とするしかありませんでした。電車は一向に動く気配がありませんが、淀屋橋から枚方方面に向かう私鉄がいち早く運転を開始したので、電車とバスを乗り継ぎ、数時間かけてようやく高槻の学校にたどり着きました。

 幸いクラスの生徒は全員無事で、ほっと胸をなでおろしたのも束の間、学校の中を確認すると、あちこちで物が散乱していました。高槻は活断層の影響で大阪市内よりも揺れがひどかったようで、書類棚が部屋の反対側まで飛ばされていたところもありました。早朝のため怪我人はいませんでしたが、授業中であればどうなっていたことかと恐怖を覚えました。テレビをつけると亡くなられた方のお名前が次々に公表されており、その中に偶然知人の名前を見つけました。ほんの数か月前に駅で会って話をした人が突然亡くなったと聞いても、現実離れしていて全く実感が湧きませんでした。呆然としたまま時間が流れ、夕方になると電車が動き始めるという情報が入ったため、帰宅の途につきました。これが私の震災当日の記憶です。

 お隣の神戸が壊滅状態になっているのに、大阪ではその日のうちに日常が戻りつつある現実は、まるで非現実のような不思議な感覚でしたが、改めて「これは現実だ」と思い直しました。災害はいつ起きるかわからず、誰が被害に遭うかもわかりません。たまたま自分は無事だったけれど、被害に遭っていたとしても不思議ではない、それが災害です。残念ながら、やってくる災害を止めることはできません。しかし、被害を減らすための努力はできます。例えば、非常持ち出し袋の中身を確認したり、家具の転倒を防ぐ工夫を検討したり、緊急時の連絡方法を家族で話し合ったりするなど、防災を自分事として捉えてほしいと思います。

 最後に、被災地の方々にも思いを寄せつつ、生徒の皆さんにとって今年が実りある年になることを願い、3学期始業の会の挨拶とします。